魂がふるえる

2019/10/28

展示が昨日までだった、塩田千春展を駆け込みで見に行ってきました。最終日ということもありとても混んでいて、「よく分かんないけどこれを作るのが大変なのは分かる。」と話す女子たちを横目に、心を手掴みにされてずっと揺さぶられながら、人が生きるということについてぐるぐると考えさせられる展示でした。

星野源の「よみがえる変態」を読んだばかりだったこともあり、死ぬこと、生きることについて考えるということがあったからなのか、ボルタンスキー展の、刻一刻と死に向かっている今、生きている!と感じたあの時とはまた別の不思議な感覚で展示を辿る。人のこころのなかに入ったら、きっとこんな感じ。

大きな作品の片隅にぽつりぽつりと紡がれる言葉が、胸に迫ってくる。SNSで見かける赤と黒のカラフルな世界に目を惹かれがちですが、彼女の言葉はとてもシンプルで、でもそれがわたしの心に寄り添っていて、彼女の心の中を覗いているのか、はたまた自分の心のなかを歩いているのか分からなくなる瞬間があり、誰かと話したくなるような、そんな気持ちで会場を後にしました。

たくさんの糸が紡がれ、それぞれのひとが自分のスーツケースを抱えながらぶつかったり、糸が絡んだりしてみんな生きているのだよな。

そんなことを考えながら余韻に浸っていると仲良しの華子がひとりで訪れているという奇跡。

よかったよねえ、すごくよかったよねえと言いながらビールが飲める幸せ。生きることやさみしさ、たましいについて話せる相手がいるってすごく幸せなこと。

そんな話をしながら、高尚な女を目指していたのだと話す高校の現代文の先生の話がふと蘇りました。小論文をマンツーマンでチェックしてもらいながらふたりでつらつらと話をして、どんな下世話な話もどんなに難解な話も、同じレベルで話せるそんな人になりたいと思って大人になった、というような話を先生はしてくれたような気がするんだけれど、ああ、今まさにそれじゃない?と考えながら話すデジャビュ。様々なことを同次元で話せる大人になることよりも、同次元で話せる友人がいることの幸せを実感できる大人になれたわたしの人生、そんなに悪くないんじゃないか、と瞬間で30年を顧りみていた。

展示って結局ひとりで見るものなので、友達や恋人と一緒に見ても心に残るものは人それぞれで、でもそれをひとりでしっかり味わった後に、同じ体験をした信頼している友人と話し合えるというのはとても贅沢なことだなと感じたのです。

人生が交差する瞬間て、こういうタイミングなのだな、とすとんとお腹に入った。

なので、そのあとの個人的な所用で人生初の神保町に降り立ち華子の大切な古本屋さんで将棋の本を手にしたのも、これはもう当たり前の自然の流れだと思うわけです。

3月のライオンで垣間見ていた将棋の世界。
華子がハマってるなあ、と数年横目で眺めていたものを手に取り持ち帰る。

そんな素敵な日。